『許されざる者』

どうも!もう冬ですね!
(今日は12月5日です。)


この日もムービックス京都で観ました。




(基本的な展開は完コピです)


「(余裕持っていくか・・・)」なんて思って行ったら時間を間違えてしまってて既にちょっと始まってたパターンをしてしまい、
この前に観た『マン・オブ・スティール』もちょっとギリギリだったので猛省したことを覚えています・・・。本当に申し訳ない。


普段そんなことがないだけに、新たなことに気付きました。開映してから入ると、いきなり真っ暗なのでこけそうになります!!(プチ情報)



さて本題に入りたいのですが、僕、元の『許されざる者』を観ずに行ったんですね。
で、「あぁ〜・・・ふぅん」みたいな感じで観終わったんですけど、
その帰りにTSUTAYAでクリント・イーストウッド版を観たんですが

まぁ面白い!


あのですね、展開はほとんど一緒なんですよ。ちょっと違うだけでほぼ完コピ。
だけど圧倒的に違う所が一つあるんですよ。それは今回のリメイクには「笑い」が無いということ。

それはいわゆるコメディということではないんですが、この作品のストーリーは凄く人情味のある話と言いますか、
人の情に訴えかける部分が根幹にあるからこそ惹きつけられると僕は思うんです。

人の生活を描くということは、喜怒哀楽、悲喜交々があるわけですよ。
だけど僕は今回のリメイクには重さ、苦しさ、悲しさしか感じ取れませんでした。

例えば女郎部屋で事の発端となる事件が起こって、その手打ちとして後日馬を持ってくるシーンがあるんですけど、
納得のいかない女郎(遊女)達が怒り狂って「二度と来るな」と言って追い返す所。
一見すると同じシーンなんですが、リメイク版は小池栄子扮するリーダーを筆頭に本当に心から許せないという感情をぶつけている様、
そして二人組の主犯格では無い方の男を可哀想と思ってしまう位の悲壮感で撮ってしまってるんですね。
対するイーストウッド版は、娼婦が個々に真っ直ぐな怒りのぶつけ方をしていて滑稽さすら感じさせていました。
こちらの主犯格では無い方の男は不器用ながらも自分の連れがしてしまったことに申し訳ないという気持ちを出しつつ、
でも「自分はしていないのに・・・」という罪の自覚の無さまでその短いシーンで表していました。

もっと単純で、もっとわかりやすい所を言うと、賞金に釣られてやってきた賞金稼ぎの男が
その町の保安官にボコボコにされて追い出されるというエピソードがあるんですが、
そこで一緒にいたその賞金稼ぎの男の伝記を書いている作家がおしっこを漏らしちゃうんですね。(イーストウッド版)
こういう情けなくて「どうしようもねぇなぁ」って思うけど、それが人間だなぁって感じる描写が元のイーストウッド版にはあったんですよね。

リメイク版が好きな人は「いやそういうのはリメイク版にもあった」っておっしゃるかもしれません。
確かに柳楽君が演じる沢田という男の登場シーンは「酷く泥酔して人に絡む」という所でどうしようもなさがありました。
ただ、そこだけを取り上げて書くとそうなのですが、そのシーンが内容に対しての時間が長いんですね。
この映画全体に言えることなのですが、一つ一つのシーンが長い割に大事なことはちゃんと説明してくれないんですよ。
なんでそれが駄目だなと思うかと言うと(「長いのは退屈だから」という理由ももちろんありますが)
長いということはなんらかの重要な意味があり、意図的に長くしていると思うんですよ。そうじゃないと長くする意味が無いですしね。
邦画全体に言えること(もちろんそうじゃないのもありますが)なんですけど、やたらと「シーン・・・」みたいな空白の場面を入れるのは
本当にやめていただきたいのですよ。物語を集中して追えないし、「観る」じゃなくて「観させられている」という感覚に陥って楽しめないですから。


その他にも、上に「ほとんど完コピ」って書きましたけど、変えている所もあるんですよ。
やっぱり大きいのはキャラクターの役割の配置変えですね。
観てない人にもわかるように説明すると、イーストウッド版では若い男が主人公の所にやってきて一緒に賞金首を殺して稼ごうという話を持ちかけ、
苦しい生活から抜け出す為に引き受けた主人公が友達のおっさんを連れて賞金首を始末しに行くという感じ。
リメイク版ではおっさんが渋る主人公を誘って、賞金首を始末しに行く道中で仲間に入れろと言ってきたよくわからないアル中の若造を仕方なく仲間にし、
結局三人で賞金首を始末しに行くという感じ。

要はおっさんと若い男の役割が逆なんですね。ここもなんで変えたのかよくわかりません。
何故イーストウッド版では若い男が誘うと言う風にしたのかと言うと、
映画として重要なキャラクター成長を描く為、そしてもはや西部開拓時代のことはフィクションでしか知らない現代人に
「(金のためとはいえ)殺人を犯すということはこういうことだ」というメッセージを伝える(わかりやすくする)為だと思うんですよ。
無知で経験が浅い若者と同じ目線で物語を追えますからね。
また、イーストウッド自身が西部劇の作品に出演経験が多く、この作品はドン・シーゲルセルジオ・レオーネに捧げたという作品で
彼にとっての「西部劇」の集大成的な意味合いもあると思うんです。
「人命が軽視された所では、時には殺人が金になった そこで賞金稼ぎが生まれた。」(『夕陽のガンマン』冒頭の字幕より)という
シンプルでいて西部劇の説明としてこれ以上はない様なこの文の要素もしっかり入れていたのが元のイーストウッド版だったんですよ。
そしてそういう作品を成り立たせるためにはこのバランスでないと駄目だとイーストウッドが思ったからだと思うんですよね。

でもリメイク版では話を持ちかけるのがじじいなんですね。もちろん舞台を日本に置き換えて、時代考証や設定など色々整える上で変えざるを得なかったのかもしれません。
(ここから少しネタバレになりますが)ただ、首謀者が途中であっさり投げ出して帰るってリメイクとかそういうこと以前に納得出来ないですよ。
せめて賞金首を始末しに行ってしくじったあのシーンで、更にその仲間に追い回されて傷だらけになりながら命からがら逃げて来た先で、
「俺は何をやってるんだろう」となるくらいじゃないと、仮にも今まで死地を乗り越えてみじめで汚くても生き延びて来たじじいが
あの程度で尻尾巻いて帰るとは考えにくいし、納得し辛いですよ。
それに途中で合流する若い男も設定を変えたから持て余しちゃって成長したんだかしてないんだかよくわからない着地に落ち着いちゃってる。
更にイーストウッド版にはあった物語後半で明らかになる賞金首を始末しに行こうという話を持ちかけた「動機」というのもはっきりと示されない。

それでも前述したような「舞台を日本にして再構築する上で設定を変えざるを得なかった」と言うのならもうリメイクなんてやんなきゃいいですよ。
凄く重要な所を残さずに大体のストーリーだけをコピーする意味などどこにあるんでしょうか。
あと風景が綺麗とか、映像が綺麗なのが魅力という雰囲気を醸し出してますがそういう面でも微妙です。
(そういうの観たかったら『劍岳』とか『オーシャンズ』とかそういうの観るので間に合ってますし。)


あと細かいことを言うと、主人公と保安官(警察署長)が出会うシーン、イーストウッド版では何者かわからないまま出会うのに、
リメイク版では「こいつは○○の〜〜」みたいに既にお互いのことを知っているということがわかってしまっている。
こうしてしまうと因縁関係にあるという感じが強まってしまい、そうなると観客は最後の対決に期待をしてしまう。
でもこの映画はそもそもそこに重きを置いている映画ではないのであっさり対決は終わるんですね。
リメイク版の殺陣自体は凄く計算されたものだったし、観ていて迫力はありましたが期待したような一騎打ちでの攻防は無く拍子抜けでした。


それと批判ばっかり書くのも嫌なのでイーストウッド版の良かった所を書きますが、
主人公がモーガン・フリーマン演じる友人のネッドを誘いに行くシーン。
最初は断っていたネッドが話に乗る丁度その瞬間に壁に飾ってある銃(スペンサーライフル)が映ることで、
まだ銃を捨ててなかったことがわかると同時に画面からも「話に乗ったんだな」という意思表示が窺える見事な場面だと思いました。
真似するならこういう所を真似して欲しかったですね。(結局批判)


まとめると、「現実世界では味わえない重く辛い時間を味わいたい」という余裕のある人生を送っていらっしゃる方は良いかも知れませんが、
残念ながら僕はこの映画の良い所を見つけることはできませんでした。


<補足等>
・俳優の人達は良かったと思う。特に小池栄子とかは凄く誠実に演じようとしていて良かったと思った。
・ただ・・・佐藤浩市はやりすぎかな・・・(演出がアレなのかもだけど)
忽那汐里ちゃんは可愛かったけど、あの役やらせるには綺麗過ぎる・・・
・なんか全体的に「主人公は本来善い人で、善いことをしましたよ」感が出てて気持ち悪かった・・・
・だって最後のシーンで全てを終えて立ち去る時に本来は「俺が帰る時に邪魔をしても良いけど、邪魔した奴だけじゃなくそいつの嫁も子供も殺す!」
 みたいなセリフがある位の主人公だったはずなのに・・・
・まぁこれきっかけにイーストウッド版『許されざる者』を観るきっかけになったので良かった(無理矢理良い感じで終わる)



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